関西の食文化 - 喫茶文化

喫茶文化

お茶と日本人

お茶を入れている写真

 お茶は日本人の生活には欠かせない飲み物であり、「茶の湯」などの喫茶文化も関西が発祥です。
 茶は、中世初頭には貴重な薬とされていましたが、様々な種類の茶や、その飲み方が考え出され、お茶は大衆の飲み物として支持を広げていきました。

お茶の歴史

茶畑(露地茶園)の風景の写真

茶畑(露地茶園)の風景

 805年、比叡山延暦寺の開祖、最澄が、中国・唐から茶の種を持ち帰り、比叡山のふもとの大津市坂本日吉神社あたりに植えたことが茶のはじまりとされています。
 1200年前後に僧の栄西が記した「喫茶養生記」の中で「茶は養生の仙薬なり」とあり、古くからお茶が健康によいと知られていたと考えられます。この時代に、茶の粉末を湯の中でかきまぜる「点茶法」という新しい茶の飲み方をもたらされ、日本に露地栽培の「抹茶」を飲む習慣が広まったといわれています。

 16世紀になると、京都府にある宇治で、茶園全体に覆いをかけ遮光する覆下栽培が始められました。これにより、露地栽培による渋みの強い「抹茶」とは異なり、鮮やかな濃緑色をしたうまみの強い日本固有の「抹茶」が誕生しました。

露地茶園と覆下茶園、覆下茶園の内側の写真

露地茶園(手前)と覆下茶園(奥)覆下茶園の内側

 17世紀になると、茶葉に湯を注いで飲む「淹茶法」が伝えられ、1738年には、現在の京都府にある宇治田原湯屋谷の永谷宗円という人物が、蒸した茶の新芽を焙炉の上で手で揉み乾燥させる「宇治製法(青製煎茶製法)」と呼ばれる茶のつくり方を開発しました。この宇治茶製法が現在の「煎茶」の基本的な製法となっており、19世紀には、宇治で覆下栽培と結びつき、製茶技術の至高ともいうべき「玉露」が生み出されました。

お茶の種類

左に抹茶、右に煎茶の写真

抹茶 煎茶

てん茶・抹茶

 柵など覆いをしている茶園で、日光の直射をさけて育てた新芽を蒸した後、もまずに乾燥させたお茶。抹茶は、てん茶を茶臼でひいて粉にしたものです。 

玉露

 柵など覆いをしている茶園で、新芽に20日以上覆いをして柔らかい緑色の濃い芽をを育て、その新芽を蒸してもみながら乾燥させたお茶。鮮やかな緑色をしており、茶葉をそのまま食べることができます。

直掛けの「覆い」をしている作業の写真

直掛けの「覆い」をしている作業(かぶせ茶)

かぶせ茶

 摘採前の1週間程度、覆いをして遮光することで茶葉が濃緑色となり、渋みが少なく、コクがあり、旨みが増したお茶。色、風味とも煎茶と玉露の中間的な存在です。

煎茶

 覆いをしない茶園の新芽をつんで蒸した後、もみながら乾燥させたお茶。日本で一番多く飲まれているお茶。

お茶とおもてなし

市民茶会の模様の写真

市民茶会の模様

 薬として飲まれていた茶は、その後、高価な茶室や茶道具などにも凝った茶会が盛んに開かれるようになり、茶は位の高い人達のたしなみとなっていきました。 
その後、堺の千利休によって大成された「茶の湯」。その意義は「お茶を、主客ともに楽しみ、心を通い合わせること」とされています。
 戦乱の時代にあったその当時、豊臣秀吉は一般庶民をまねいた大茶会を開くなど、茶の湯の大衆化がはかられたこともあり、お茶が庶民の暮らしに根付いていきました。

 長い歴史の中、関西で育まれてきた喫茶文化は、「茶の湯」の精神の下、日本独自の「おもてなし」のこころにつながっているといえるでしょう。

お茶と菓子文化

和菓子の写真

和菓子

 お茶の美味しさを引き立たせるため、「茶の湯」で菓子が供されたことにより、関西には、古くから銘菓と呼ばれるにふさわしい和菓子が伝わっています。
 かつて「東洋のベニス」と呼ばれ、日本を代表する交易都市として栄えてきた堺では、砂糖など海外からの輸入が盛んだったこともあり、関西における和菓子づくりは「茶の湯」の影響を受けながら発展していきました。

 今日のような菓子が登場するのは元禄の頃からで、京菓子では菓子にも和歌や季節、風景などにちなむ銘をつけて楽しみ、銘も味わうようになりました。
 明治時代に入り、砂糖の輸入の増大したことで京菓子の全盛期をむかえ一般庶民に広く普及し、今日でも季節を映したお菓子をいただく風習が残っています。

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